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「 ないものはない」 という海士町のうたい文句は素晴らしいと思う 。「無い 」ということを誇りにした、その志が美しい。

180402_ないものはない説明資料


 <ないものはない>という海士町のうたい文句は素晴らしいと思う。ことばが美しいのではない。<無い>ということを誇りにした、その志が美しい。

 そのことばを大書したポスターを今も大事に所持している。私もそう思うからだ。だから何度も何度も旅人として訪ねてくる。行く、ではない、来るのだ。

 無いことの一番は、騒音が無いこと。人工的な騒音のないということがどれだけ気持ちのいいことか、都会人なら誰もが思う。都会のターミナルには必ずスピーカーから流れてくる音楽やら注意事項の呼びかけ。騒音。それが菱浦港には無い。

 菱浦港に降り立ったとき、先を急ぐのではなく、しばらく辺りの景色を見たくなる。空気を吸いたい。静かに耳を澄ませたい。そう思うのだ。ないものはない。けれど、と思わせてくれる。そして、「隠岐のどこが好き?」と人に聞かれると、「内航船に乗ること」と私は答える。島から島へ往ったり来たり。そんな旅の出来る隠岐が好き。

 甲子園球場に近いところで生まれ育った私には船に乗ることが殆どなかった。何しろ交通の便が良すぎるところで生きてきたのだ。そんな私が隠岐へ通うようになってもう二十年近くなる。近ごろはフェリーに乗船すると誰かしら島の人と出会えるようになった。島に友人知己が増えたのだ。そのことが嬉しい。

 初めて海士町を訪れたとき、小学校を訪問したい、島の子と俳句を語り合いたい、と観光協会にお願いしてみた。いきなりの無理な希望を申し入れた。するとどこの誰やら分からない私を、いいですと受けて下さったのは、福井小と海士小の二校。

 普通では考えられないことだ。半ば無理だとろうと思いながらの私の希望を受け入れるーもうそれだけで<ないものはない>という心意気の強さ、ふところの深さがあるではないか。

 海士小のこども達と明屋海岸で遊んだ。岩場の海岸をぴょんぴょん跳ねながら、貝-カメの手という都会では高価なモノを獲ってくれる彼等の姿に感動した。都会の小学校では、そんな危険なことをすると大声で叱られる。

 金光寺山も彼等と登った。斜面に造られていた長い長いすべり台を、彼等とすべり降りた。あの名物は、いま、どうなったのだろう。

 福井小は、何と言っても学校林だ。
 あの急斜面をみんなで登って遊んだ。校舎を見下ろし、その前にある海を眺める。一緒に登った女の子が、「ウルシの木があるから気をつけて」と教えてくれたのもいい思い出だ。男の子は、彼等のヒミツの基地を教えてくれた。すっかり仲良くなって、校長ともよく雑談した。用もないのに学校へぶらりと立ち寄り校長室で、たとえば「いい子たちばかりですよねェ」と私が言うと、「問題なんか起こらないんですよ。でもね、却って問題がないことが問題。」と、苦笑しながら贅沢な悩みを語っておられた。

「郁子の実や 島に生まれて 校長に」 大雄

 その校長に贈った俳句だが、そのムベの実を初めて見たのも海士町だった。

 海士町には観光ガイドブックに載らないけれど、私には不思議なモノが沢山あった。名もない(失礼)ような小さな神社に、後ろ向きの狛犬があったり、少しづつ大きくなる石の伝説があったり、原生林と呼びたい森や林には古木が沢山あり、大山の地下水が湧き出ているという伝説の名水があったりして、一人旅でも退屈することがない。

 そんな隠岐・中ノ島(海士町)へ俳句仲間といい会をもつことも出来た。弟子を沢山もっていて、普段はとても忙しい三人の俳人と、マリンポートホテルに泊まり夜遅くまで語り合うことが出来たのだ。
 弟子たちがくる前に、もう一人は弟子たちが帰ったあとも島に残ってゆっくりと、地元では語り合えない話をすることが出来た。海の音、潮の香りのするところだから、日常から遠く離れたところだから心が解きはなたれたようにいろいろ語り合えた。それは至福の時間だった。

 隠岐を語るのではなく、隠岐で語る。それは換え難い場所なのだ。ないものはない、という隠岐・海士町とはそういう場所なのだ。

 ないものはないーとは言え、隠岐には歴史がある。伝説がある。まずは後鳥羽院御火葬塚と村上家。そして内航船に乗ればすぐそこの西ノ島町に後醍醐天皇の黒木御所跡。そして殆どの旅人が知らない僧・文覚の岩窟が、焼火山南面の絶壁にある。文覚とは後鳥羽上皇を批判して隠岐へ流されたという伝説の多い僧だが、その墓が知夫里島の松養寺にある。そして、

「わたの原 八十島かけてこぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟」 小野篁

 この有名な一首の前書きには、隠岐の国に流されるける時に云々とある。隠岐は古来、歴史伝説の豊かな国なのだ。

 旅人としての私は、その島々で生まれ育ったこども達と語り合いたいと思いつづけている。そして、その島で旅人として訪ねてくる友人たちと語り合いたい、とも。

「百合の種 投げる遊びを 島の子と」 大雄


海士町観光協会の令和3年海士からの島だより より転載



島との距離は離れても、気持ちはいつも近くに