海士町史に刻まれる希代のリーダー
2024年1月3日、悲しい報せが島を走りました。
前町長である山内道雄さんがご逝去。85歳でした。
山内さんは現役時代、前代未聞の挑戦を重ねて海士町を変革へと導いた、まさに激動期のリーダーです。炎のように熱く気合いに満ち、かつ愛嬌があり思いやりあふれる“情の人”。
「やるなら本気で、思い切りやれ!」と、職員らのヤル気に火をつけただけでなく、島で何かにチャレンジしたいという多くの若い移住者を応援し、見守り、“Iターンの父”とも呼ばれる存在でした。
「山内さんにとって、『ないものはない』ってどういうことですか?」
と、町長時代に質問したことはありませんでした。しかし退職して5年が過ぎた2023年6月7日、奇しくも85歳の誕生日に、ご自宅でお話を聞く機会に恵まれました。2回目を約束したきり、じっくりお話を聞く機会は永遠に失われてしまいましたが…
生前最後のインタビュー。療養中であり、以前のような勢いのある山内節ではありませんでしたが、あの時の数少ない言葉の中に、私たち島民にとって大切なメッセージがある。そう信じて、山内さんの想いを分かち合いたいと思います。
「モノの話ではない」
山内さん町長時代の海士町の取り組みと言えば、隠岐牛や岩がき等の地域資源を活かした「島まるごとブランド化」戦略による産業振興が有名です。
外貨獲得と雇用創出のためのそれらの挑戦こそが「ないものはない」まちづくりなのだ、と当時の山内町長は語っていました。
その山内さんが2023年6月に伝えてくれたのは、次のような言葉でした。
「『ないものはない』は、モノの話じゃない。形がないもののことだろう。島に今あるものに喜びを感じられる、心のもちようのことだろうな」
島のものに価値を見いだすという方向性は同じですが、以前は客観的な側面を表現していたのに対し、より主観的、内面的な切り口に注目していました。「あるものを活かす」のさらに上流、「あるものを愛し、味わう」ことが大事であると。
「あるものの豊かさに気付いて、そこに小さな幸せを感じて暮らすこと。島民がそういう状態でいられるような町であってほしい。そのために、今も『危機感』は常に必要だよ。特にまちづくりに関わる町職員は、住民サイドに立って考えないと」
住民の安心を最優先に考え、島の暮らしにあるべきものがちゃんとあり続けるようにすることが何より大切だと説いていました。
今必要な「危機感」とは
インタビューの際、山内さんが強調していたのは「危機感」という言葉です。
かつて海士町が深刻な危機に見舞われたことと言えば、2003年の合併問題、続く2004年の「地財ショック」です。当時の山内町長は単独町制を宣言し、異例の給与カットを始めとする大胆な財政改革で、職員の意識を、そして島民全体の意識を変えていきました。
危機感という言葉は緊張や不安をはらみ、ネガティブな状況を指すように思われがちです。しかし、「より良く変わるのならば勇気をもって変えていこう」という心構えに直結するポジティブな要素もあります。危機意識とは、何が大切なのか?大切なものが守られているか?ということに気付く鋭敏なセンサーと言い換えられるかもしれません。その感性を養うべきだと、山内さんは伝えてくれたのです。
山内さんは現場主義の人でした。町民との距離が近く、町長室のドアはいつも開いていました。かつて海士町に住んでいた書道家の白龍齋一心道(はくりゅうさい・いっしんどう)氏が作った「なぞかけ」で、こんな作品があります。
《海士町とかけて、昆虫館と解きます。その心は…?
町長(蝶々)が いつも手の届くところにいます》
草の根の感覚を大切に、いろんな立場の人と気軽に話し、住民目線やIターン目線で考えてくれる。そんな山内さんの魅力を端的に表現した傑作でした。
「それ以前の町長にはなかなか会えんかったけど、山内さんはいつでも町長室に入りやすい雰囲気づくりをしていたし、声もかけやすかったな。行くといつも、仕事の手を止めてでもちゃんと向き合ってくれたよ」(旧知の友人、漁師、豊田区長の山下照夫さん)
元教育長の榊原信也さんは、こう振り返ります。
「山内さんの人柄は、一言でいうと『惻隠(そくいん)の情』。トップダウンじゃなく、情を中心としたボトムアップ型。何かチャレンジしたい若者に対して、善悪や損得よりも、その人の気概を応援し寄り添っていた。まさに人を支え、人に支えられてきたリーダーだったな」
まちづくりの仲間を信じ、動かす手腕
山下さんが教えてくれたエピソードがあります。
「こういうことしたい、って町長室へ相談に行ったとき、山内さんは『お前それ、ほんとにやっかえ?』って聞くだ。そっで、『やっでぇ。やっだけん来とっだわい。どげぞせえな』って返したら、『よしわかった!』って、その場で担当課長を呼んでな。課長が予算どうこう言ったら『金がないなら知恵だせぇ!』って一喝。言われた課長も『わかった。どげぞすっわい!』って応えて、そっで実際に実現すっだわい。山内さんもすごいけど当時の課長連中らちも実行力がすごかったでな。海の駅・松島を造った時もそんな感じだったな」
松島を造った当時の課長こそ、現在の海士町長、大江和彦さんです。
山内町政で長く総務課長を務めた美濃芳樹さん(2014年度末で退職)によると、山内さんの人を動かす手腕こそが、海士町を大きく変えていく鍵だったようです。
「アイデアとヤル気をもっている若者に好きにやらせる度量の大きさ。それが抜群だったね。『自分が責任もつから、やりたいようにやれ!』と。CAS事業や干しなまこ事業等々がうまくいったのは、当事者の他に、革新的なソフト事業をこなせる職員がおって、それをやらせる町長がおったということだから。それ以前は、血気盛んな職員が組織を超えて何か挑戦しようとしてもみんなの理解を得るのが難しかった。ところが山内さんが町長になったら、『役場は今日から住民総合サービス株式会社だ!』って言って、年功序列を無視した抜擢人事など新しいことをどんどんして役場内の環境を変えていった。そのおかげで、何かしたくてうずうずしていた中堅職員たちがブレイクしたんだな。彼らの色んな挑戦は、山内さんがおらんかったら絶対できてなかった」
ブレイク寸前の人材が揃っていたところへ、山内さんという町長が登場した。この絶妙なタイミングの神業的な采配を、吉元操副町長は冗談めかして「ごとばんさん(=後鳥羽上皇。島の守護神)の人事だわい!」と笑います。同じように山下さんも、こんなふうに。
「あの人、そういう星の下に生まれとっだわ。見てみぃな、山内さんが町長になった時、そん時の海士町に必要な人が揃っとっただわい。本当にそういう星だど!」
人と、地域とつながりたい
山内さんに世話になり、深く恩義を感じているIターン者が数多くいます。山内さんは海士生まれですが両親が移住者だったため、自分もIターンのような立場で育ちました。かつてあまチャンネルの取材を受けた際も、「小さい頃から、祭りや正月に親類がいない寂しさを痛感していた。だからIターン者の気持ちが分かる」と語っています。
「海士町へ来る島留学生への愛情も、自分が益田高校に行って感じていた寂しさがベースになっとると思う。寂しい人を慮る、それこそまさに『惻隠の情』だわい。共感力が高く、仲間を大切にする。すべて、子どもの頃の寂しさから来とるんじゃないかな」(吉元副町長)
「正月の新年会とか、人を集めて飲む場が好きだったな。お酒が好きというより人が好きなんだろうな。しかしなんぼ嬉しくても、あっほどの付き合いはできんど〜普通の人間は。嫌いなもんだっておると思うよ、人間だもの。でもそういう態度を見たことがなかった。山内さんは器が違ったな」(山下さん)
山内さんが最後のインタビューで繰り返していたキーワードに、「安心感」があります。
「稼ぐ一方で、暮らしの中に安心感がないといけない。贅沢はしなくていいけど、根底に安心感がないと、人は小さな幸せを感じられないから」
山内さんは町長になる以前の郵便局勤務時代、菱浦地区の十日恵比須を復活させ、自分は胴打ちとして活躍していました。伝統行事を守り、受け継ぐことを通して、地域の連帯感を生み出そうとしていたのです。そして自分もその輪に入り、地域の一員として生きることに幸せを感じていました。
青年団活動にも情熱をもって取り組み、約60年前に海士村青年団の初代団長を務めていた山内さんは、島根県内の青年団員約300人を呼んで明屋海岸での大規模キャンプを実現させました。当時の明屋海岸は草ぼうぼうで全く整備されていませんでしたが、山内団長が陣頭指揮を取り、海士村の団員が力を合わせて開拓したそうです。
人をつなぐことから活力を生み出そうと、果敢にチャレンジしていた若き日の山内さん。そんな青年時代の体験の積み重ねが、後に、挑戦する若者たちへの共鳴につながっていったのでしょう。
「海士は海の士(サムライ)だ!」と、生前の山内さんはよく口にしていました。この「さむらい(侍)」というのは、「さぶらう」が語源で、大切な人やものを守るという意味だそうです。守るためにこの身をどう使うかを考える人。それがサムライなのです。
合併問題以来、「自分たちの島は自分たちで守る!」と何度も叫んできた山内さんは、まさにサムライでした。でもこの強い言葉の裏にあったのは、とても繊細な情の深さ。そして、地域に根ざす安心感に包まれながら暮らすことこそが島民の幸せなのだと、安心して暮らせる島を守っていってほしいと、それが晩年の山内さんの願いでした。
何に安心感を感じるかは人それぞれ。幸せも人それぞれで、すべてが正解です。
だから、『ないものはない』について山内さんが残してくれた言葉は、「あなたは何を守りたいですか?」という問いかけと同じです。
一人ひとりが、海の士(サムライ)として何を守っていきたいか。
これこそまさに、移住者と地元民がつながりあい皆で島を守ってゆく、山内さんが目指した海士町ではないでしょうか。
この世を去り逝く山内さんに、幸せを。
ご冥福をお祈りします。
■取材・執筆/小坂真里栄(ライター)
■取材協力・写真提供/榊原信也(神職)