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世界と自分とを繋ぐ魔法の道具ーカメラを片手に、越境の旅へ。目指す職業は“高橋恭介”

高橋さんは埼玉県出身で、インタビューを行った2022年冬現在、県立隠岐島前高校の3年生。3年前の春、都会の“海なし県”埼玉の坂戸市から辺境の離島へと『島留学』する道を選んだ稀有な高校生の一人です。

入学した2020年は、まさに新型コロナウイルス蔓延が始まった頃でした。つまり高校生活3年間をコロナと共に過ごした世代です。

「だからこそ得られた経験もあった。コロナが無ければ、『To Be Dozen』も生まれていなかったと思う」

人の話を聞くことや写真撮影の面白さに目覚め、2022年8月、それまで1年半以上かけて島民にインタビューしてきた記事をまとめた雑誌「To Be Dozen」を発行。雑誌という形で、そして目に見えない部分においても、彼が島前に残した爪痕はクッキリと鮮明です。学校や寮、そして学校以外にも多くの人の心の中に、熱い存在感を刻みました。

縁もゆかりも無かった海士町へ移住し、島留学生として精一杯チャレンジを繰り返す日々の中で、自ら“ご縁”を練り上げていった高橋さん。2023年春の卒業を控えたタイミングで、島での暮らしを振り返って話を聞かせてもらいました。

高橋さん

“やりたいこと”を求めて、島へ

「僕、小さい頃からめっちゃ負けず嫌いで、勝負はいつも本気。やるからには勝ちたい性格なんです(笑)」と、“熱い男”を自認する高橋さん。ところが高校受験の時、自分のやりたいことは何か、どんな高校生活を送りたいのかをまるでイメージできなかったそう。

「埼玉県内で進学するつもりでオープンスクールに参加したけど、全然楽しいイメージがわかなかった。やりたいことがなくて、何だかつまんねーなー、高校行ってもこんな感じなのかなーとモヤモヤしてました、あの当時は」

そんな中、隠岐島前高校との“ご縁”が突然舞い込みます。

「お父さんが電車通勤中にたまたまネットニュースで島前高の記事を見つけて、こんな学校があるよと紹介してくれました。自分で調べて、何だここ、面白そー!!って直感でピンと来た。勉強以外でやりたいことが、この島でなら見つかるかもしれない!ってワクワクしましたね。お母さんは最初は猛反対だったけど…お父さんが『俺なら行きたい』と言ってくれて、後押ししてくれました」

父親を味方に付けた高橋さん。11月のオープンスクールに参加するため、親子で隠岐・海士町へ初来島しました。その日の夕飯を食べに味蔵(みくら。島の居酒屋)へ行ったところ、たまたま、地元住民の男性グループが侃々諤々やりながら飲んでいるのに遭遇。

「酔って赤い顔して、みんなで海士町の未来を語り合っていたんです。自分が住んでいる町の未来とか、そんなこと坂戸では考えたこともなかった。何なんだここは!?と思ったし、そんな大人たちがカッコよく見えました」

図らずも、海士町らしさの一端を垣間見て度肝を抜かれた二人。
店を出たあと、親子で交わされた会話は…

「俺、ここ受けるわ」
「おう、頑張れ」

熱気と興奮が伝染した夜でした。

話を聞いたのは隠岐國学習センター。当時を思い出し、懐かしそうに話す高橋さん


 モノよりも、出会いや体験を

念願かなって入学試験に無事合格。しかし新型コロナウイルス対策のため、待ちに待った入学式はオンライン開催となり、同級生とも会えません。友達とのコミュニケーションは、実際に顔を合わせるよりも先にLINEと電話からスタートしました。

そんな状況でも、入学前から決めていたのは「やろうと思ったことは全部挑戦しよう!」ということ。男子寮「三燈(さんとう)」に入寮してすぐの6月、立候補して副寮長に就任しました。

「コロナ禍の中でも何か出来ることはないかと色々企画して頑張っている先輩たちがすごくカッコよくて、自分も一緒に寮運営をやりたくなりました。寮生40人の投票で選んでもらったのですが、実は最初は全然ダメ。先輩たちのような多面的なものの見方が出来なくて、他人に伝わるような説明も下手で…。自分はまだ何の役にも立てないと痛感して悔しかった。でも諦めずに頑張り続けたら、少しずつ、話を聞いてもらえるようになっていきました。いま振り返ると、寮生活、めちゃくちゃ楽しかったです!」

寮はただ暮らす場所ではなく、友人や先輩と切磋琢磨できるチャンスの宝庫。多趣味な人も多く、新鮮な刺激にあふれています。特に、ハウスマスターの小谷望さんに影響を受けたそうで、「人としても男としても憧れて、いつか超えたい!と本気で思ってました。僕、負けず嫌いなんで(笑)」。寮生活を通じて、一生モノの関係をたくさん紡ぐことができました。(※小谷さんは2023年3月に退職)

とは言え、地方移住には思わぬアクシデントや悩み、トラブルがつきもの。何をするにも便利な都会で生まれ育った中学生が、いきなりコンビ二もゲームセンターもカラオケボックスも映画館も無いド田舎の離島へ移り住んで、出身地もバラバラな同級生たちとの高校生活。しかもコロナ禍の中、さまざまな制約も多かったはず。不便さや、大変なこともあったのではないかと思いきや…

「いや〜、初体験の刺激があまりに魅力的で、暮らしの不便さは気にならなかったです。不便を嘆くよりも、より多くの体験をしたい、色んな人と出会いたいという欲望のほうが大きかった。良い意味でのカルチャーショックばかりで、退屈知らずって感じ」

娯楽施設が無くても、島での楽しみ方はいくらでもある。海士町で出会った『ないものはない』という考え方も、すんなり理解できたと言います。

「島前に来てから日々の過ごし方が変わって、消費よりも体験を求めるようになったので、3年間モノが増えませんでした」。無駄なものを買わなくなり、たまに本土へ出た時にも買い物をあまりしなくなったそう。
その代わり、高校3年間で手に入れた“目には見えないもの”の価値は計り知れません。

「必要だけど無いものは自分たちで作ったり、知恵を集めて何とかする面白さや、有るもので楽しむ工夫も知りました。竹を採ってきて流しそうめんするとか、プールが無くても海で遊ぶとか。そういう実体験をしたときに、あっ、これが『ないものはない』だよな~!って後で気付いたりもしますね。その繰り返しを積み重ねてきて、生きるスタイルとして染みついた気がします」

高校時代は多くの本を読み、カルチャーに触れ、自己啓発に夢中だったという高橋さん。

取材の日は、特に影響を受けたというコンテンツをたくさん持ってきてくれました。


このような自分の変化を目に見える形にしたい。
島留学で得た学びや気付きを、自分らしいやり方で発信したい。
そんな思いから生まれたのが、インタビュー集「To Be Dozen」でした。


島留学生からのメッセージ「To Be Dozen」

インタビューを始めたのは、1年生の9月頃。ハウスマスターの小谷さんに勧められたのがきっかけでした。最初のインタビュー相手は海士町民だけでしたが、2年生になると、西ノ島町や知夫村の住民にも拡大していきました。

「コロナの影響で、人どうしの心の距離が以前より離れてしまったという問題意識があって。直接会えなくてもインターネットで情報を取れたり繋がれたりする世代はまだいいけれど、お年寄りなど、情報を得にくい人も多いですよね。同じ島前に住んでいるんだから、もっと多くの人に知ってほしい素敵な人たちがいる。それを僕は伝えたい。じゃあどんな媒体なら伝えられるだろう?と考えた結果、お年寄りにも手に取ってもらいやすい紙媒体にしました。大きなサイズの雑誌を作ろう!と」

「To Be Dozen」では、島前3島の総勢17人にインタビューを敢行。さまざまな世代、いろんな職業の島民たちに、島前でどう生き、何を考え、どんな未来に向かって生きているかをじっくりと聞き、「その人にとって島前とはどんな存在か」を、自分の言葉と写真で伝えることにチャレンジしたのがこの雑誌です。


刊行後は、「知らんこともいろいろあって面白かった」(地元住民)、「高校生がこんな雑誌を作れるなんて、刺激になった」(大人の島留学生)など様々な反響が寄せられました。

「多くの皆さんの協力を得ながら、時間をかけて完成させました。インタビューでは得るものも多くて、一番の学びは、『常識の範囲から飛び出ることも時には必要だ』ということ。井上奈々さん(知夫村)や、吉田公三さん(海士町)の取材では、こんな生き方もアリなんだ!と衝撃を受けましたね。あと『To Be Dozen』は、島前高生の中にはこんな活動してるヤツもいます!って言える一つの事例になれたことも嬉しい。地元住民の皆さんと島前高生との心の距離を縮めるのに役立ったかなと思ってます」


To Be Dozen は、町内の隠岐國学習センターや海士町中央図書館でもご覧いただけます。

自己表現を“ひらく”トリガー。僕には「写真」だった

「To Be Dozen」は、その人だけのストーリーと想いを丁寧な言葉で記録しています。そして言葉と同じくらい強力に“伝えるパワー”を発しているのが、写真。すべて高橋さんが自分で撮影した作品です。

「お父さんがカメラ好きで、子どもの頃からカメラに憧れていました。高校生になってこの島で暮らして、隠岐の素晴らしい自然を撮りたいという気持ちが芽生えたので、お父さんのSONYの一眼レフを誕生日プレゼントとして譲ってもらって。それが1年生の6月で、それ以来肌身離さずカメラを持ち歩いて景色や人物を撮ってました。ところがそのカメラ、10月に壊れちゃったんです…。でもどうしても写真を続けたくて、ずっと貯めていたお年玉貯金15万円をすべて注ぎ込んで、キャノンのEOS RPを買いました!」

自分で手に入れたカメラには愛着もひとしお。写真の世界にどんどんのめり込み、撮れば撮るほど上手くなる。撮った作品をInstagramなどで発信することも始めました。

そして写真を撮ることを通じて思い出したのは、自分の内なる声。表現したい!という衝動と喜びでした。

「いつの間にか忘れていたけど、実は小学校の頃は図工が好きで、画家になるのが夢でした。でも自分は天才じゃないから諦めていた。中学生の時は詩を書くことに憧れて、でもやっぱり俺には無理だと思った。画家や詩人を夢見たことも、その想いに蓋をしたことも、写真が思い出させてくれたんです。そして、表現する方法は人それぞれでいいんだ、自分には写真なんだ!と素直に思えました」


写真、という行為のどういうところが好きですか。そう聞くと高橋さんは、キラキラな目をより一層大きくさせながら、こう語ってくれました。

「“いま”を生きていることにめちゃくちゃ感動する瞬間があるんです。“いま”に感動しすぎて、生きていたい!死にたくない!って。例えば友達と海に浸かりながら夕陽を見ている時。この美しい一瞬が永遠であってほしい、この一瞬を絶対に忘れたくないと強烈に思う。こんなに感動してるのに、時間が経つといつか忘れちゃうなんて、切なすぎる。だから“いま”をとらえたい。写真ならそれを残しておいてくれる。こんなにも綺麗な世界と僕とを、カメラが繋いでくれる。僕にとっては、まるで魔法の道具」

「oasisで人生変わりました」

読書家で、映画鑑賞も年に100本以上。音楽もよく聴くという、インプット意欲が旺盛な高橋さん。芸術家の岡本太郎や、アートを題材にした作品で知られる小説家の原田マハなど、さまざまな分野のアーティストの影響を強く受けています。

ロック音楽が大好きで、お気に入りはThe Beatles(ビートルズ)、The Who(ザ・フー)など数多くいますが、一番好きなのがoasis(オアシス)。なんと、高校卒業後の進路を決める決定打になったのは、oasisのドキュメンタリー映画でした。

「『オアシス:ネブワース1996』です。高校3年の7月、寮のベッドの上でヘッドホンを付けてパソコンで観ていて。この曲を聴いて、もう震えちゃって…『うわー!この道に行くしかない!』って。写真を学びに日本の外へ出ようと決めました」

高橋さんを打ちのめした曲は、「Live Forever」。
You and I are gonna live forever!(俺たちは永遠に生きるんだ!)


目指すのは、職業、“自分”

島前高校卒業後は埼玉に戻り、夏までは家族と一緒に過ごしながらバイトしてお金を貯める計画です。そして、その後は…

「フランスに武者修行に行きます。絶対にカメラマンになる、と決めて行くわけじゃなくて…だからざっくり、武者修行(笑)。パリに近くて治安が良くて、物価が安くて語学学校もある、ルーアンという町に住みます。写真をしながらタクシー運転手をしたり、漁師をしたり…いろんな仕事をやってみたい。それらの経験が全部、写真に影響するというか、作品に反映されると思うので。目指すのは、職業=“自分”。自分が吸収してきたものが全部作品に出る、という世界で生きたい。その世界に行く、と決めたんです」

「僕はいつも戦っている感じ。内省的になる苦しみはよく知っている。でも、楽しいんですよね。戦っているけど、勝ってもないし負けてもない。終わらない、終わりたくない衝動と言うか。島前には帰ってきますよ。ここは自分にとっては故郷の一つ。これからも、何かあったら帰ってくる“原点”だと思うし、また住む時が来るかもしれない」

通奏低音は常に「Live Forever」。
終わらない世界を生きる中でも、心のオアシスは島前。それが高橋さんの関わり方、「To Be Dozen」なのでしょう。


【書き手よりひとこと】

取材当日、18歳どまんなかの彼からはパッションがほとばしり出ていた。負けん気が強く、爽やかだけど良い意味でガツガツしていて、朗らかだけど貪欲。フランス行きを前に、全身全霊で武者震いしている。何をしていてもファイティングポーズに見えた。

アイドリングを終えたらどんな世界へ跳んでいくのか。ブーメランのようにいつか島前へ戻ってくる時は、どんな高橋恭介になっているのか。早く見たい!

帰ってきた暁には、また八千代で、恭介くんの好物をご馳走しますね。笑

菱浦の八千代にて、お気に入りのカツ丼とバッテラをパシャリ。島の思い出を閉じ込めた。


取材・文 / 小坂 真里栄(フリーランスライター)


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島との距離は離れても、気持ちはいつも近くに