見出し画像

島の教育魅力化の先駆者の一人【豊田庄吾さん】。「地域」×「教育」を一生貫くと決めたときから

海士町に来て15年。
離島で教育魅力化を牽引した一人である、豊田庄吾さん。
この春から新たな目標に向かって走り出す豊田さんの軌跡をたどります。


海士町までの道のり

海士町に公立塾(隠岐國学習センター)を設立し、島の教育を切り拓いてきた豊田さん。教育に関わるまでにはさまざまな道のりがありました。

ーー海士町に来る前の経緯をお聞きしても良いですか?

豊田さん:
福岡県大牟田市出身で、広島の大学を卒業後はリクルートグループの会社に就職し、東京で働いていました。人事の仕事をしたり、WEB案件でホームページや情報誌、海外旅行雑誌をつくる制作部門にいたときもありました。
29歳の秋までリクルートで仕事をして、そのあとは起業しようって思っていて。
知り合いにプログラマーやエンジニア、クリエイターの人がいたから、仲間とWEB会社を立ち上げようかなって思ったんだけど、父親が経営しているお店の事業が失敗しちゃって結果、起業資金を全部渡して断念しました。

ーー急な展開にびっくりしているんですけど。

豊田さん:
超貧乏生活だから、パン屋さんでご自由にお取りくださいみたいなパンのみみありますよね?あれを食べていたりして。

ーー29歳で大手企業を退職されて、貯金もない。その後の仕事はどうされたんですか?

豊田さん:
当時、仲の良かった友だちと久しぶりに会って、その人のご縁で人材育成会社(ウィル・シード)に入ることになりました。
ここで「教育」といいますか、人づくりに関わる仕事に携わるようになって。

ーー「人づくり」というワードが出てきましたが、人材育成会社ではどんなお仕事をされていたんですか?

豊田さん:
みんなが知っている大企業や国の省庁の方向けの企業研修と、全国の小中学校をまわって出前授業をしていました。
出前授業では、教科を教えるんじゃなくて「社会に出て仕事をするときはこういうことが大事だよ」みたいなことを自分たちで学んでもらう機会をつくっていましたね。

ーー少し「教育」という分野につながってきましたが、その後はどうやって海士町とご縁が?

豊田さん:
30歳半ばくらいかな...?
もともと高校魅力化プロジェクトのリーダーをやっていた岩本悠くん(地域・教育魅力化プラットフォーム代表理事)とご縁がありました。たまたま東京時代に出会って一緒にワークショップをやったこともある仲で。

彼が先に海士町に来ていて、「隠岐島前高校が廃校しそうで、何とかしないといけないから立ち上げメンバーになってほしい」と誘われたことがきっかけでした。

海士町は当時人口が2500人で、若い子が年間100人ぐらい移住している島だって悠くん(岩本さん)から聞いて、「なんでそんなに若い子たちが集まるの?」と尋ねると、「説明はできないけど、島に来れば分かるよ。」みたいな(笑)

ーーその一言で興味を持ったんですか?

豊田さん:
2009年の4月に「もう一回来てくれ!」とお願いされて、ちょうど地元(福岡)に帰る予定があったので海士町に寄りました。

そしたら図書館の前で悠くんにプレゼンされて。「持続可能な社会への引き船(タグボート)になる」みたいなスライドを見て、なんかその船に乗りたいなって、その日の夜に「移住します!」って決めちゃいました。

東京にいた頃は麻布十番に住んで、友だちもいて、楽しかったですよ。
でも地方へ出前授業をしたときに、人口減少で悩んでいる地域の人たちに「やればできます!」みたいなアイデアを出したり、1歩踏み出すことの大切さを伝えていた時に、東京に住んでいながらそういうメッセージを伝えている自分の言葉が軽いなと思って。

東京を1回離れて、課題が多い地域で泥水すすりながら、特に、これから頑張ろうとしている地域に貢献したいなと思い、2009年の11月に1人で移住しました。

ーーすごい勢いですね(笑)

豊田さん:
島に移住するハードルよりかは、悠くんたちがやろうとしている内容に面白さを感じて、「行っちゃえ!」って感じでした。

将来この島はこうなるだろうっていうのは、鮮明に見えていたわけじゃないけど、何でだろうね。ノリ?(笑)

でも、当時30代前半で。
超貧乏生活を切り抜けたあとに、研修会社に入って、「地域」×「教育」という2つのキーワードで俺は生きていくんだってことを決めました。

その地域に住んでいる人たちの光がみえるような取り組みを、学びとか教育の切り口でやっていきたいというのが当時思っていたこと。

この2つのキーワードで生きていくということは、仕事が変わっても一生ぶらさないことです。

ーー一生のテーマですか!「地域」×「教育」というテーマをぶらさないと決めた信念はどこから湧き出したのでしょうか?

豊田さん:
ふとひらめきました(笑)
きっかけはないんだけど、じわじわと時間をかけて生まれたとすれば、自分のふるさとでもある福岡県大牟田市かな。

炭鉱が閉山してから、人口がすごく減ってしまって。
映画の「フラガール」を知っている?
この映画は、福島県のいわき市が舞台で、ここでも炭鉱が次々と閉山してしまう危機をフラダンスで救うっていう話。

そういう町が寂れていく姿を見てきたから、自分も同じようにふるさとに貢献したいなと思ったことが、「地域」×「教育」の「地域」の部分をつくったんだと思います。

「教育」の部分は人材育成会社の出前授業で子どもたちにビジネスゲームをやったときに、たかだか1日の授業で人は変わらないけど、子どもたちの意識は変わることに気づきました。

「これが大事なんだ!」と目の色が変わったり、動きが変わったり、そういう子どもたちの姿に触れて、「教育っていいな」、「一生続けてやっていきたいな」と思うようになって。

「地域」が元気になるための掛け算は、福祉とか、医療とか観光とかいろいろあったけど、自分にとっては「教育」だったんだよね。

島の教育魅力化。隠岐國学習センターの立ち上げ人として

2010年に隠岐島前高校と連携した公立塾。
隠岐國学習センターを設立。

ーー教育魅力化の一歩として、学習センターを設立。どういった理由からはじまったんですか?

豊田さん:
岩本悠くんの構想の中にもともと学習コンシェルジュをつくろうみたいなものがありました。

当時の島前高校は学力の幅も広くて、1つの学校に3つの学校があるっていわれていた中で、みんなが同じ授業を受けるわけだから、ちゃんと学力の幅に合わせた教育を個別でやっていくホテルのコンシェルジュの学び版をつくろうとしていたらしくて。

実験的に外部講師を呼んで、高校の図書館で実施したけど、その計画は失敗してしまったみたいです。

そのあとに自分が来島したもんだから、高校の先生からは、「怪しい人が来た」という目で見られてましたね。

来島して学習コンシェルジュ計画があったお話を聞いて、改めて高校の図書館から場所を見直して、塾というよりかは学びのラボをつくろうと思いました。

いろんな家を回って、探して、元副町長の吉元操さん(海士町役場魅力化政策顧問)のすすめもあって、菱浦郵便局の前の民家をお借りして、学習センターをはじめました。

当時の学習センター

ーー入口が「怪しい人」。学校の先生との関係性づくりには苦戦したんじゃないですか?

豊田さん:
今だからいえるけど、学校の先生と信頼関係を築くことが1番しんどかったです。学校の先生が一生懸命になって学校で全部やりきろうという気持ちがあるから、塾を好まない先生もいた。

だから、とにかく学校には足しげく通って、先生と何度も話し合いを重ねて関係性を築いていきました。

豊田さん:
廃校をとめるには先生たちとの連携が非常に大事で、どうしたら島前高校に進学したいと思ってもらえるのかを、ずっと話し合いながら学びのラボをつくっていましたね。

そしてもう1つがどうしたら応援してもらえるのかをすごく考えた。
視察で来られる方々を分析して、一人ひとりに丁寧な対応をしていたし、年に1回は大阪と東京の説明会でプチ授業をやってみたり、そういった積み重ねで、わが子を島前高校に送り込みたいと思ってくれた親御さんも増えてきましたね。

ーー現場で働く先生方との連携は、高校を魅力化に導くうえで欠かせないことですよね。学習センターではどのようなことをしていたんですか?

豊田さん:
学校の勉強を教えるという塾よりかは、自分が企業研修の現場で学んだことをちょっとカスタマイズして、大人になったら必要とされる力を高校生に体験してもらおうと、いわゆる大学のゼミのようなことをやっていました。

島前高校の子たちってよく喋るでしょ。

ゆくゆくは、選択肢を自分で切り拓いていかないといけなくなるから、自分の考えで自分の言葉で喋ることをやっていく。
今の夢ゼミはもっと広く、キャリア教育的なことをすべて「夢ゼミ」と呼んでいるけど、最初は自分の考えを話すということを「夢ゼミ」としてやっていました。

▼夢ゼミとは
隠岐島前地域を舞台に、対話的、実現的、探求的に学び続ける場所。
多様な人と関わりながら、地域社会の変化を見据え、個人と地域双方の自立を目指します。
▼様子はコチラのnoteからも!
夢ゼミ|隠岐國学習センター

豊田さん:
この島も学校と家の往復で、たまる場所もないじゃん。
第3の居場所になるといいなと思ったりはしていましたね。

2015年から新校舎となった現在の学習センター

ーー生徒とはどういう話しをするんですか?

豊田さん:
ひとり一人に心のスイッチがあるとすれば、「この子は何と出会うとスイッチが入るんだろう?」みたいなことをすごく考えていました。

一方で、学力はそこまで重視していなくて。生徒一人一人が、自立して生きていけるようになることを意識しながら、話をしたり考えたりする場を作っていました。でも、「将来何がしたいんだ」って問いを投げかけて「その言葉だとわからないから筋道を立てて表現しなよ」と投げかけていくうちに、少しずつ文章力があがってきて、結果的に現代文で満点を取るようになったりしてね。
そうやって学力も後からついてくる。

社会に出てからは、学力だけではなくて、人とのコミュニケーションが大事になるからね。

もちろんこういうことが苦手な子もいました。
とある少年は、「夢はありません。」みたいな。でもその子も周りの友だちから徐々に刺激を受けて「将来やりたいことはあんのか?」って聞いてみると「声に関わる仕事がしたい」というから知り合いのラジオDJとつなげて、個人放送局で1時間半くらい喋る場を設けてもらってね。

結果、その子はラジオの制作会社に就職しました。

ーーそんな学習センターで印象に残っているできごとはありますか?

豊田さん:
やっぱり大学の合格発表ですかね。1個1個嬉しかったです。


フェリ―の中で合格の報告を受けて、吉元(元)副町長と手を挙げて喜んだことを思い出しました。

あとは卒業生が島に帰ってきたりね。「帰ってこい」って強制的に帰ってこさせることは良くないけど、本人の意思で帰ってくるんだったら嬉しいよね。

自分はシャケに例えていて。
帰ってきたいと思うシャケをいかに育てるか。
それにはいろんな賛否はあるけれど、シャケが帰りたい川ってどんな川なのかを考えて、その川をつくる。

若い子がチャレンジできるとか、同期がいるとか、集落に20代の子が1人でいてもさ、それが好きな人もいるかもしれないけど、ちょっと寂しくなる瞬間もあるじゃないですか。だとしたら近い年齢の人たちがいると、いいかもしれないなって。

「選ばれる地域」になるってことが大事なんだけど、そこに今度は、教育の面でどう貢献できるかが、自分のテーマです。

「地域」×「教育」の1つのカタチ「大人の島留学」。

島根県の離島、隠岐島前地域(海士町・西ノ島町・知夫村)で若者を対象とした、就労型お試し移住制度「大人の島留学/島体験」

ーー豊田さんは、大人の島留学の研修にも関わっていますよね。

豊田さん:
島前高校卒業生のたっちゃん(青山達哉 海士町役場 還流促進特命官)が大人の島留学をはじめてくれてね。
「豊田さん手伝ってください」って言ってくれて。

まさにこの「地域」×「教育」の1つのカタチとしての「大人の島留学」は、めちゃくちゃ光だと思っています。海士町だけでなく、日本の離島中山間地域にとっての希望の光。

まだまだ課題もあって、ご指摘やご指導もいただいているけども、やっぱり希望だと思いますね。

▼大人の島留学


ーーなぜ、学習センターからフィールドを移して海士町役場へ?

豊田さん:
当時は精一杯で、ここで何ができるかしか考えていなかったから、ちょっと場所をずらして、役場の方で次にできることをと「大人の島留学」の研修に関わりはじめました。

これもすごくよかった。
やっぱいい経験だったし、まさに言ってた通り、地域を作るってことと、人づくりじゃないけど、地域と教育が混ざる環境だから2つのキーワードで今生きてこれているという。

やっぱり、居場所が大事だと思います。

地域の魅力をちゃんとつくって、魅力を発信していく、入り口はそれでいいけど、もうちょっと長いスパンで考えると、大事なことはその1人1人に居場所とか役割とか、貢献できる舞台があるかが大事であって、その居場所は物理的な場所だけじゃなくて、精神的な場所も含めて考えた時に、同期の存在があることは、職場以外にも居場所ができるということだし、人との関わり合いで、居場所もアップデートされていくから。

人がたくさん来てくれているから、ありがたいし、たっちゃん(青山さん)やロド(ロドリゲス拓海さん 島前ふるさと魅力化財団)含め、仕掛けてる若いメンバーは本当にリスペクトだね。

大人の島留学での研修

海士町生活15年目と今後

「教育長」という新たな目標に向かって。

ーー海士町生活15年目にして教育長を目指されるというお話を聞きましたが。

豊田さん:
今後も、一緒にやっていくという選択肢はあったのかもしれないけど、そんな中で、いろんなご縁があって、今度は「教育長」になりたいなと思うようになりました。

教育長をやらないかって外からオファーをいただいて、いいなという思いがあって。
ここ何年かでなるとは全然思っていなかったけど、 改めて自分はもう50歳やなみたいな、49、50歳の時にはそういうことも考えていかないといけないなと思い、すぐに全国の教育長に話しを聞こうと思って。

ーー全国ですか!行動が早いです!

豊田さん:
なんか100っていう数字を大事にしていて、人によっては1万時間っていう人もいるんだけど、自分は100。

100人に話を聞くとか、100回プレゼンするとか。回数重ねていくと、あるところから自分が話す言葉に 魂がノッてくるんだよね。自分のものになるというか。

ずっとオンラインで、夜もzoomをしながら話を聞いて、そうしたらやっぱり色々教えてもらうことができました。
例えば、日本で1つだけ改革型の教育長を育てる大学院があると教えてもらって。兵庫教育大学の教育政策リーダーコースを受けたらいいんじゃないのとか、現役教育長と学べるし、いいなと思って、その大学院を受験しました。

はじめて試験で「わかりません」っていいかけたぐらい難しくて(笑)
オンラインでも受けれる大学院だから海士町にいても授業が受けれるんだけど、ちょっと修行に出た方がいいなと思って。

それは海士町が嫌だからとかじゃなくて。海士町にお世話になったから、もっと恩返しを続けたいと思った時に、今のままだとまだまだ自分の未熟なところもあるなと思って。
いつもいるメンバーの中で学ぶことも大切だけど、同じ環境で学ぶのではなく、ちょっと環境を変えて学んだほうがいいなと思いました。

越境して学ぶ。
もう一度、修羅体験をしながら自分を磨く。なんか、どMだよね。(笑)

それで、広島の三次市というところへ。

教育長と交流があって。前職時代に関わっていた自治体の中で、唯一市内全部の小学校で出前授業していた場所。
奥さんや子どもたちには申し訳ないけど。三次に修行の旅へ出ることにしました。

【ご報告】海士町を出て新しい挑戦をすることにしました お世話になった(お世話になっている)方々へ 2009年の11月に移住して以来15年間お世話になった海士町を、離れることを決めました。 まさかこんな日が来るとは思ってなかったですが(ずっ...

Posted by 豊田 庄吾 on Saturday, March 2, 2024

ーー家族を海士町に残しての、一大決心ですね。

豊田さん:
別に仕事が嫌なわけでもないし、公務員だから安定もしているけど、1番は子どもたちに父親は50歳で、自分がやりたいと見つけた夢に対して、挑戦したって姿を見せたいなと思って。

挑戦って言葉は重いから、全員が挑戦した方がいいとは思っていないけど、自分の子どもたちには攻めの姿勢でね、自分で道を切り拓いていく、そういう人生を送ってほしいです。

そう思った時に、うまくいくというよりは、やっぱ失敗しながら思った通りに行かない姿も、見せたいなと思って。「間違ってたんじゃないの。50代の挑戦」と言われながらもがく姿を見せたいと思って。

自分自身、ちゃんと教育長になるための勉強を体験しながら、今後どうなるかわからないけれど、「地域」×「教育」というキーワードは一生貫きたいと決めているから、将来に希望を持つ人や希望を持てる地域が増えていくとか、特にご縁がある地域をフィールドに自分を発揮させたい気持ちは強いです。

ーー海士町ではどんな15年でしたか?

豊田さん:
感謝しかないですね。感謝だな。

でも、海士町ではいろんな人とご縁をいただいて、たくさん学ばせていただいた15年間。
魅力化で1つの形は残せたから、本当だったら会えないような大臣とか、国会議員さんとか、いろんな方にお会いする機会もいただけてそこでも、たくさん勉強させてもらいました。

ーー暮らしの面でもいろんな活動をされていましたよね。
豊田さん:
暮らしの面では、住んでいる菱浦地区のみなさんに感謝しています。
祭りもそうだけど、いい経験をさせてもらったし、 コミュニティの中に入るという感覚をリアルに体験させてもらいました。

恵比須祭りの様子▼

豊田さん:
地域の祭りでは、天狗のお面をつけて祭りの先頭を行く、先払いというのがいて、本当はさせてもらえないようなことをわがまま言ってやらしてもらったり。
今年の年明け、1月10日の恵比須祭りは、もう三次に行くことが決まっていたから今年は何かしらの役をやるのではなく、おみこしを担がせてもらえるとうれしいなと思ってました。そんな中「胴打ちをやってほしい」と依頼があったときには、断ったほうがいいかな、と思っていました。

1度は「ごめんなさい」って言ったんだけど、「どうしても人がいないので胴打ちをやってもらえないか」とお願いされて。
申し訳ないなと思いながら、やらせていただくことにしました。

練習がすっごい大変でなかなか上手に叩けなくてね。
だけど、いい経験をさせてもらったし、菱浦の人たちの懐の大きさに感謝しかないです。

えびす祭りの練習。 面が小さいのか、顔がデカいのか その両方なのか。 知らんけど とにかく顔が痛い。 プロレスラーに アイアンクローされながら 胴(大きな太鼓)を叩いてる感じ。 前進はしたが、まだまだ先は長い。 残り期間は短い。 ふぁいと。おれ。

Posted by 豊田 庄吾 on Tuesday, December 19, 2023


ーー3月末で離島されるんですよね。(3月取材)

豊田さん:

同じタイミングに離島される方がFacebookで「海士町とともに生きていく」と書いていて、なんだろう。自分も同じ感覚で、海士町とのご縁は本当に切りたくないなと思う。

どうせ踏み台にしてどこか行くんでしょ。
みたいに思う人もいるかもしれないけど、そうじゃない。 
これからも関わり続けたいなって気持ちです。
今後どういう切り口か分かりませんが、島の外からできる応援をしていきたいです。

ーーもう海士町は第2のふるさとですね。

豊田さん:
生まれた0歳から10歳まで、10年かけて育った子どもが、この町は、この市は、自分のふるさとだなと思うことがふるさとの定義としてあるかもしれないけど、別に35歳から45歳の10年間でできるふるさとの考え方もあると思っています。

どうやって人はふるさとだと思うかというと、たくさんの人に触れて、世話してもらったとか、遊ばせてもらった自然が自分を作ってくれたって感じた時に、ふるさとだなと思うんだと思います。
35歳からこの50歳までの15年間でも、なんか子どもがふるさとだと思うのと同じようなことを海士町でさせてもらった。
海にはたくさん連れて行ってもらったし、祭りもそうだし、だからふるさとなんだよね。

ーーさいごに

豊田さん:
本当にお世話になった人がいっぱいいるので、ひとり一人にお伝えできていないのがもどかしいです。

今日も急に肩をぽんってたたいてもらったりしてね。

この前は、次の三次市に行くための健康診断を受けたときに、診療所で採血してくれた女の子が塾の一期生で、その子が高3の時は「絶対にお前から注射とか打たれたくねえから」とか言っていたのに今回、健康診断で採血してもらうときに、注射打たれて感慨深かったです。

別の保護者からも、「塾の人にお世話になったから島前高校に入れて、本当に感謝しています。」と言ってもらえて、「ありがとうございます」って言われるけど、むしろ逆でこっちが感謝しています。

地元の大牟田市もそうだし、海士町もそうだし、次に行く三次市もふるさとになるといいなと思っている。

関わってるところにちゃんと誠意を持って対応して、貢献していきたいなと思います。

ーーありがとうございました。
2時間にも及ぶインタビューには、豊田さんの「地域」×「教育」で生きていくと決めた熱い想いと、15年間の感謝の気持ちが色濃く込められているように感じました。

(海士町note担当:渋谷)


島との距離は離れても、気持ちはいつも近くに