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表現の軸は「ひと」にある。『アンアン』や『ポパイ』を手掛けたアートディレクターの半生。【海士町出身 新谷雅弘さん】

「ここで泳ぎを覚えてね。あそこに僕の実家があったんですよ。」
そう、気さくに答えてくださったのは海士町多井地区に住む新谷雅弘さん。

新谷雅弘さん

新谷さんは聞き馴染みもあるであろう、『ポパイ』や『アンアン』、『オリーブ』といった名雑誌のデザインをしてきたアートディレクターだ。

6/28からは、新谷さんのしごとや手がけた雑誌を特集した展覧会が島根県立美術館で開催されている。

海士町で育ち、アートディレクターとして活躍している新谷さんの過去から現在に迫ります。



取材の舞台は、多井地区。

新谷さん:
僕が育ったのはここ海士町 多井地区で、0歳から9歳まで過ごしました。

もともと僕のおじいさんが、島の桶屋でね。
昔はプラスチックのバケツなんてないから、全部木の桶ですよ。
各村をまわって注文をとって、納める仕事。

今はないけど、実家はもともとあそこの森の中にあってね。
当時はこの辺にもいっぱい家があって、路地を走り回ったりして遊んでいましたね。

新谷さん:
小学校は崎小学校。いまでも旧崎小学校として校舎が残っているんだよね。
校章やカイズカイブキの大木もそのまんま。
あの木のそばで記念撮影とかしてたね。

小学校は山の上にあるから、急坂を子どもの足だと40分くらいかな?
毎日が遠足みたいで、最高でした。

旧崎小学校とカイズカイブキの大木


海士町で過ごした9年間、デザインの原点。

新谷さん:
1番上の姉は当時10歳。私は大阪で生まれてすぐ、家族で海士に引っ越してきました。海士の前は大阪にいたから大阪の文化を知っているわけよ。
たとえば飴の包み紙を「きれいだな~」と見ていたり、きせかえ人形とかで遊ぶじゃない。

「かわいい」とか「きれい」とかそういう言葉や感覚と接してきたことが、今を振り返ってみるとデザインなんだよね。

新谷さん:
あそこからあがる朝日がきれいなんだよ。そういう景色の絵も描いていた。
僕らの時代は個性教育と言われていた時代でね、僕は絵が上手だからって芸能賞と書かれた賞状を小学2年生のときにもらいました(笑)

新谷さん:
でも3年生の時に海士を離れて大阪へ戻ってね。
勉強はできないけど、海士での風景とかを絵に描くと、大阪の人にとっては珍しいんだろうね。先生が「お前の絵うまいな〜」って貼りだしてくれて。

成績は悪いけど、絵だったら誰かが認めてくれるかもしれないなと思ったね。

だけど、絵を仕事にするなんて当時はまったく考えていませんから、商業高校に行こうと思っていました。
そうしたら、美術の先生が家まで来て、「絵を続けたほうがいい!」と説得しに来たんだよ(笑)


大阪市立工芸高校図案科(当時)

新谷さん:
こうしているうちに世間ではデザインという言葉が出始めた頃。
大阪市立工芸高校の図案科に入学しました。
卒業する頃には図案なんて言葉は古くてデザインといっていましたね。

今でいう「これからの時代はコンピューターだ!」と同じ感覚で、高校は図案科だったから大学でデザインを学ばないと食べていけないかもしれないと焦ってね。
悩んだけど、「今はたまたま家業がうまくいっているから大学にいきたいなら金出してやるぞ」と父が背中を押してくれて。

俺もね、「浪人したらダメだな」と。
大学は多摩美術大学を目指しました。
必死で受験勉強しましたよ。

新谷さん:
タイミングが良いことに、たまたま大阪で多摩美術大学の学生が夏限定で塾をやるというからテストの対策をしてもらってね。

本番の試験では、色面構成という課題テストがあるんだけど、アンリ・マティスの絵を参考にしました。
マティスの絵の色が綺麗な組み合わせなのよ。「これだ!」と思ってね。

ずるいかもしれないけど、ある意味それが、デザイナー的。人がみてどういう効果があるのか。

広告なんかもそうじゃん。たとえば、ウイスキーだって「誰が飲むのか」、「どういうデザインだったらウイスキーらしく見えるのか」を考える。

デザインはあらゆるところからヒントを得ています。
雑誌でも自分が「感動した!」、「いいな!」と思ったら、ちぎって壁に貼ったりして、いつかこれを使おうと。常にアンテナを張っていますね。


自分で切り拓いていった、大学時代。

新谷さん:
大学に入ったら、偉大な先生ばっかりで。
ただ、高校では手取り足取り教えてくれるけど、大学では課題を家でやって評価の日に持っていくだけ。

「これはまずいな〜」と思ったから、「なにかあったらお手伝いさせてください!!」と自分から先生の部屋に押しかけましたね。
家に行っていろんなお手伝いをしましたよ。
個展をやるというからそのお手伝いとか。

おかげで一流のグラフィックデザイナーと接しました。
その経験はすごくよかったな。

結果、知り合った人(福田繁雄氏:グラフィックデザイナー)を通じて、生涯の先生となる堀内誠一(アートディレクター・絵本作家)という人に出会うことができました。

堀内誠一さん
1932年、東京に生まれる。伊勢丹百貨店宣伝課、デザイン事務所「アド・センター」を経て1970年、新しく創刊した雑誌「anan」のアートディレクターに就任。戦後の雑誌の黄金時代を牽引した。絵本『くろうまブランキー』の刊行(1958年)を皮切りに絵本作家としても活躍。

一部引用:島根県立岩見美術館 企画展「堀内誠一 絵の世界」

新谷さん:
それはね、大学の先生に「大手広告代理店を受けろ」って言われて。
試験を受けにいったら学問のほかに性格をみるテストがあってね。
それに頭がきちゃったの(笑)
「冗談じゃないよ!」って試験の途中で出ていっちゃって、それが大学にも伝わって就職の道がなくなってしまったわけ。

その時に、大学を辞めて装幀家そうていかになった親友(菊池信義氏)が「俺がお前の仕事をとってくるから就職しなくていいよ」とかいってさ。
その頃の僕はイラストレーター志願だったから絵を描いていてね。
イラストを描きながらその親友に使ってもらって、ギャラをもらいながら何ヵ月間かフリーターをやっていました。


1本の電話がつないだ縁。

新谷さん:
そうしたらある日、大学時代の福田繁雄先生から電話がかかってきて。

(福田先生)「今、なにしてる?」

(新谷さん)「フリーターやってます。」

(福田先生)「そっか、それはよくないな。紹介するからそこにいけ!」

(新谷さん)「わかりました!」

と、福田先生の紹介だからね。
「じゃあ明日から来てください」ってその会社に就職しました。

そうしたら福田先生が「昼からすごい人と会議するよ」というから行ったら、堀内先生がいたんだよね。

それでいきなり、「新谷くん、一緒に飲みに行こうよ」と堀内先生に誘われてね。堀内先生にとってはきっとそれが試験みたいなもの。
「どのくらい飲むのか」、「酔っぱらって変なことを言わないのか」そういうところを見られていたんだよね。

新谷さん:
ただ、当時の僕は堀内先生の業績も知らない。
「なんか変な人が来たな」としか思っていないわけ(笑)

その後、自分が勤めていた会社が倒産しちゃって。
堀内先生に「倒産しました」と連絡をしたら「昼からこっちにおいで」といわれてそのまま堀内先生のところ(アド・センター)に就職(笑)。

幸運だよね。
それですぐに助手にしてくれたの。
4年くらい一緒にいろんなお仕事をしましたね。

そこで『アンアンや『ポパイが生まれていきました。


『アンアン』そして『ポパイ』が生まれたきっかけ

新谷さん:
ある日、バーで堀内先生が「俺、そろそろ広告をやめるんだ」というんだよね。

「『アンアン』という雑誌をつくるんだけどくるか?」というから「いきます!」って2つ返事で。
それからずっと堀内先生の横で働かせてもらいました。
でも、堀内先生は海外出張が多くなって、そのあとは僕がほとんど一人で『アンアン』をつくっていました。

辞めますなんて言ったら食っていけませんからね(笑)
あらゆるチャンスを待っていたわけではないんですけど、運よく平凡出版(現在のマガジンハウス)の方と出会って、可愛がってもらってね。

「Made in U.S.A.」という雑誌を作りたいということで、「レイアウトやってくれ」と2回担当しました。
そうしたらそれが1つの流れになって『ポパイ』というものをつくるきっかけになりました。


新谷さん:

実は、『ポパイ』の立ち上げだけは堀内先生にお願いしてね。
まずは、道筋を立ててもらう。
昔の平凡出版には、そういう習慣があったんだよね。

僕が雑誌をつくるときは、スタッフがいたとして「きみは何がやりたいの?」と聞いて「いいね!やろうよ」みたいなタイプ。例えるなら、弁護士みたいな感じかな?

やっぱりさ、表現するって「人」がいないと面白くないんだよ。

だから僕の表現そのものに「自分」はいないの。
そうなったら人を表現するしかないじゃない?

「あの人は背が高いから細い字のほうがその人らしさが見えるんじゃないかな?」とか、そういう発明をしたのが『ポパイ』でした。

大枠を言えば僕のデザインとはそういうことです。


仕事が落ち着き、帰ってきた場所は海士町。

新谷さん:
海士町に戻ってきたのは10年くらい前かな?
当時は東京のど真ん中にいたからね。
仕事が落ち着いて「ちょっと住まいを変えようかな」と考えるようになって。

その頃、住まいを変えることとは関係なく隠岐へ旅行にいきました。
そうしたら僕の実家があった海士ですから親戚だらけなわけ。
たまたま僕のいとこが住んでいた空き家で、歓迎会でもないけどバーベキューが始まっちゃって(笑)

そうしたら盛り上がって、「お前ここに住んじゃえ」と言われてね。
僕はいいんだけどさ、奥さんは隠岐の人じゃないから、奥さんがダメだといったら絶対にダメだよね。

ところが、奥さんは植物が好き。
隠岐の自然をみて面白い花とかがいっぱい咲いているから、ここならいいかもと思ってくれたみたいで、オーケーしてくれました。

新谷さん:
のちのち、今住んでいる多井地区の家に移ったんだけど、そこも、もともといとこの家でね。

いとこは、先に亡くなってしまっていて親戚のおばあちゃんが一人で住んでいたからたまに顔を出したりもしていてね。
そのおばあちゃんが施設に入るというタイミングで、家をお借りして、幼少期に住んでいた多井地区に戻ってきました。

今でも、子どもの頃の風景を思い出しますよ。
ここは全部段々畑だったし、おふくろが塩をつくるといって海水を蒸発させるために火をくべたりね。
冬になるとイカ釣りの船がここから出る。

今はそういう文化や風景がなくなってしまったけど、僕にとっては残っているんだよね
絵に描けと言われたら今でも描けます。


6/28(金)から島根県立美術館で展覧会がスタート。

新谷さん:
今回の展覧会は、担当している学芸員が花森安治さん(暮らしの手帖の創業者)の展覧会を島根でやったことがあって、そこから次は雑誌のデザインということで隠岐にいた僕に声をかけてくれたみたいです。

不思議なことに恩師の堀内先生の展覧会が7月に石見市(島根県)でやるんですよ。
それと、安来市(島根県)では今年(2024年)の1月に亡くなってしまった僕の親友、和歌山静子(絵本作家)も5月から展覧会をやっていてね。

堀内先生が中心で、僕と彼女は助手をしていた間柄だからたまたま山陰に集まるなんて、不思議なもんだよね。



ーー新谷さん、ありがとうございました。

恩師や親友の展示が同じ県内で開催される偶然も感慨深いですね。
「人」を表現することがデザインの軸という新谷さん。
当時の雑誌の世界観をぜひ見に行ってくださいね。




(海士町note担当:渋谷・布野)

島との距離は離れても、気持ちはいつも近くに