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海士町で歩んでいく、勇木史記さんの「陶道人生」

海士町で作陶活動をされている勇木史記さん。
やきものに出会ったきっかけ、海士町に来られた経緯、勇木さんの人生のものがたりをお聞きしました。

勇木史記さん

やきものに出会った学生時代

広島県広島市に生まれた勇木さん。
高校時代からやきものに出会った大学時代のお話しをお聞きしました。

−−やきものに出会ったのはどのような経緯なのでしょうか?
(勇木さん)
大学の授業で出会ったんだけれど、最初は陶芸の授業があるとは知らなくて。
高校の時に油絵とかをやって楽しくてね、元々は美術の先生になろうと思ってた。
美術の教員になれば、絵も描けるし、先生にもなれると思って。

−−先生になりたかったのですね。
(勇木さん)
父親も母親も公務員で、自ずと「将来は公務員がいいな」とうっすら思っていたんだよね。
それもあったりして、特にやりたいことも夢もなかった。一番自分にマッチしているものを探したとき、美術の教員になることが最終目標になって。

−−絵を描くことが好きだったのですか?
(勇木さん)
そうそう。車が大好きで、小さいころは車の絵ばっかり描いてた。通る車も全部名前言いながら小学校に行ったりとか。

だけど、高校のコース選択のとき、男は理系みたいな勝手なイメージがあって。僕もそれに漏れずに理系だった。

大学は工学部を目指していて「車のデザイナーになってやる!」ってずっと思い続けてたけど、思うたびに、なんか沈んでいくというか。
「多分工学系の研究者とか無理なんだろうな」と思って。ずっと計算しながらデザインし続けるとかも無理なんじゃないかなって。
感じてはいたけど、何年も無理してた。

高校のころは、とにかく成績もガンガン落ちていった。もうこれでは専門学校も行けませんって高校三年生の部活を引退するころに言われて。
でももうやる気がないんだよね。

−−部活は何部に入られていたのですか?
(勇木さん)
中学、高校どちらもソフトテニス部だった。たまたまソフトテニスの強い中学校に入ってね。
本当は陸上部に入りたかったんだけどね。

−−入りたい部活とはちがう部活に入られていたんですね。
(勇木さん)
あんまり自分の意思で決めたことはなかったんだよね、周りに合わせてた気がする。その中で好きなもの、大事にしていたのは絵を描いたり、車の雑誌を見ていいなぁ!って言ったり。

高校で成績が急降下して焦っていたころ、親が塾に入れてくれて。
そのときに初めて父親が僕の進路のことを言ったんよね。
塾の先生に「高校は4年間だと思ってる、そのつもりで入らせます」と言ってくれて。

(勇木さん)そしたら、入った塾の先生がものすごく体当たりでぶつかってきてくれる面白い人だった。
本当びっくりした、こんにちはって挨拶したらばぁーって走ってきてどーんってぶつかってきて、

−−本当の体当たりですか!?
(勇木さん)
うん、本当に体当たりしてきて、びっくりして(笑)
こんな面白い先生いるんだ!って。多分探してたんだと思う。熱い人、わかりやすく向き合ってくれる人を。

スキンヘッドで体格もめちゃめちゃ良くてコワモテなんだけど、その人がね模試とか受けると100点とか取っちゃうような人で。
見た目とのギャップがかっこいいなと、その先生の影響で「勉強、楽しいじゃん」って。
そしたら成績がぐっと上がっていった。

(勇木さん)大学入試は工学部受けることになっていたけど、最後の最後に「いや、やっぱり違う」と。
センター試験を受ける前に変えたのかな。高校三年生の12月に「僕は美術に行く」と初めて自分の意思で選択した。

それを塾の先生に伝えたらビックリされてね。
「きつねにつままれたような感じじゃ!」って。
で、「このホワイトボードに俺の似顔絵を描け」って言われて、でっかいホワイトボードに先生のでっかい似顔絵を描いて。
「どうですか?」「わかった、許す」って(笑)

−−体当たりで向き合ってくださる先生が、進路を応援してくれたんですね。
(勇木さん)
そう、その先生が最後まで後押ししてくれた。
センターが終わってからは、僕は別の塾に通い始めて受験対策で実技試験のためにずーっと絵を描いてた。
鉛筆の削り方から教わりながら(笑)めちゃくちゃ楽しかった。

それが高校までの話かな。

美術の教員になれる学校を探す中見つけた、奈良教育大学。
浪人する覚悟で受験をしたところ、無事に合格。奈良教育大学に通うことに。
ところが、いざ入学するとその年からカリキュラムが変更、あこがれの油絵の授業がなくなっていた。

(勇木さん)「油絵を描く授業がなくなっている」と思ったんだけど、僕が入ったコースには陶芸の授業が必修であるって知って。
これは見たことのない世界だなと思って。

やきものは自然の力を使ってできるから予測不可能なところがあって。できたものを見て、それがすごい魅力的に見えたんだよね。

それが、やきものに出会ったきっかけかな。

−−そこからはずっと陶芸の授業を受けていたのでしょうか?
(勇木さん)
そうだね。一年生はいろんな授業を受けて、二年三年とどんどん絞っていって最終的には教授につくんだけど。
その教授の中に教育者で古代陶磁器研究家と陶芸家の顔を併せもつ先生がいて、その先生について行った。

その先生が将来的に「隠岐窯」という名前をつけてくれたんよね。

先生が書いてくださった「隠岐窯」

(勇木さん)この先生とは大学一年生の時に出会って。
子どもに叱るように叱ってくれる先生でね。忘れ物したら「来るな!帰れ!」って言ってくれるんよ。
わかりやすいコミュニケーションが元々好きなのかもしれない。

そういう意味でも、やきものはすごく分かりやすくて、土との向き合い方にもハマっていった。


大学四年を終え、大学院に進学。
修了と同時に教員免許が取得できる大学だったため、院を修了後は美術教員の道に進むか、陶芸の道に進むか迷っていたという。

(勇木さん)悩んでモヤモヤしていたんだけど先生に、
「美術講師をやりながら、空いてる時間で作陶していこうと思っています」って言ったらまためちゃめちゃ怒られてね。
「あんたなぁ、そんな甘い世界とちゃうわ!そんな気持ちでやるんだったら辞めなさい!」って。
それを言われたときに、やった!と思って。

「僕、やきものやっていいんだ」って。

(勇木さん)「やきもの一本で行け」そう言われた気がして、よーし、この世界でやっていくぞと思いながらまだ少し悩んでたんだけどね。

就職活動もしていたけど、最終的に先生に「あんたどうするんや」と言われたときに「やきものでいきます」と。


海士町でやきものをやっていく、と決意した

大学院を修了後、どのようにやきものと向き合っていくかを考え信楽や伊賀などを周る中、信楽でやきものの心の師匠と出会う。
「やりたいんだったら早くやったほうがいい」という師の言葉を受け、勇木さんは「やきものは、自分がやりたい場所でやろう」と決意。


頭の中にふと、幼いころに見ていた海士町の海が思い浮かんだそうです。

−−海士町に祖父母さんのお家があるそうですね。
(勇木さん)
そう、父親が隠岐の生まれで、里帰りは海士町だったんよ。
綺麗な海に潜ったり、釣りしたり。海士町で楽しい思い出がいっぱいあったんだよね。都会では考えられない景色がある。
すごいうれしくて、楽しくて。

移住したころ、よく釣りをしながら見ていた景色(勇木さん提供)

そういう話をしていたら「今すぐ行ってしまいなさい!」と、信楽の心の師匠が。
しかも「結婚しなさい、彼氏彼女という関係に甘えるな責任を持て」と言われてそれを鵜呑みにして当時の彼女、今の奥さんと入籍した。

自分は無職、当時彼女だった今の奥さんには仕事を退職してもらって、入籍、海士町に引っ越してきた。

−−奥さまも大きな決断をしてくださいましたね。
(勇木さん)
最後に背中を押してくれたのは奥さんだったね。
「あんたが公務員目指してたときの目は死んどった」って。
やきものをやると伝えた時も、「その方がいいやん。夢見とったらいいやん、現実は私がみたるわ」ってそんな感じだった。
僕が一番ビビっとったんかなって。


大学院を修了した年の9月、25歳の時に夫婦で海士町に移住。
奥さんは海士町で就職をし、勇木さんは半年間、海士町役場で働くことに。
翌年4月からは教員免許を活かし、島前地域の中学校で週3日中学校美術の先生として勤務、週4日は作陶へと向き合っていた。

−−中学校で働きながらやきものを作り、販売をされていたのでしょうか?
(勇木さん)
いや、販売はしていなかった。
5年間は地盤固めだと海士町に来る前に信楽の心の師匠から言われてて。地盤固めって、僕は商売じゃなくて、ちゃんとそこでものを作ることだと思った。

作ったものに納得できる5年間を目指さないといけないと思って、あえて売らなかった。

中学校の美術の先生を始めて5年ほど経ったころ、隠岐島前高校の魅力化がスタート。
地域創造コースが新設されることになり、「地域の人にも学校に入ってもらいたい」と、高校から勇木さんに声がかかった。
そこからは高校でやきものの授業を担当することに。
普通科の公立高校でやきもの、という新しい挑戦。「陶芸創造コース」という授業が始まった。

−−島前高校での授業はどうでしたか?
(勇木さん)
魅力化が始まって高校の島留学制度がスタートした頃だったから、島外からの新しい風がふわっと入ってきていた。
生徒たちも自分の立ち位置を探り合っている感じがあったかな。

でも僕の授業ではそれを出さないよう展開することにしていた。
自己紹介はするんだけど、
「この授業で、みんながやるのは土と向き合うこと。それができんのに、人を評価したり、好き嫌いでものを言ったり、上手い下手だと勝手に決めつけるのはやめてくれ」って言って。

どこから来たとかは関係ないって言って、ずーっと土練りさせとった。
土練りっていう地味な作業があるんよ。最初の1時間くらい楽しくてあとはしんどい。それを1ヶ月2ヶ月くらいやる。

土練りのようす

−−やきものを始めるときは、土練りが最初に通る道なのでしょうか?
(勇木さん)
土練りができればなんでもできるという感じなんだけど、みんなそこで挫折するくらいむずかしい世界。
でも土練りと向き合うことで、お互いを個として見られるようにしたくて。

「頑張ってる子がいたら絶対褒め合おうや」出来んって思ったときは「いや、できるまで頑張ろうや!」って声かけしようって。そういう授業。

暗記して、計算してとかもちろんそれも大事なこと。でも同時に、授業の中で自分のありのままをさらけ出せるってかなり貴重なことだと思う。
僕の授業は希望した子がランダムで10人入ってくるから、すごく個がバラバラ。

でもやっていくうちに認め合ってきたり、支え合ってきたりとか。
ちょっと苦しい思いをしたりとかすると、一体感が少しずつ出てきて一つのチームになる瞬間があるんだよね。

(勇木さん)最終的には作品を作って、それを産業文化祭に出したり、高校に展示したりもしてた。

(勇木さん)今は高校も自分は外から来た、自分は地元の人だって分かって入って来ている人が多いから、僕が在籍した10年間で地元の子も島外の子もお互いを受け入れる姿勢がついていった気がするなぁ。

−−素敵な授業です。生徒みんなの雰囲気も、すこしずつ変わっていったんですね。


勇木さんにとっての隠岐窯

大学時代の先生が命名してくださった隠岐窯。
隠岐窯とは「勇木さんと先生だけの対話」なのだと勇木さんは話します。

(勇木さん)隠岐窯はその先生の背中を追いかける手段というか、憧れている人に近づきたい、僕自身にとってはそういうものだと思ってて。

先生が海士町まで来て彫ってくださった扁額

(勇木さん)憧れに近づくために作陶を通して自分を成長させているから、隠岐窯を残そうという気持ちはなくて。僕の代で終わっていいと思ってる。
畳みますという話ではなくてね、終わっても後悔はないという感じ。

先生と僕とのやりとりで生まれた、生き方まで変えてくれた。
その先生への感謝。僕が生きている間に感謝が伝えられればそれでよくて。

生き方としては、自分の作ったものが400年後くらいに発掘されて、「当時こんなものを作れるやつがいたんだ!」って言ってもらいたい。

−−発掘される土器のような。
(勇木さん)
そう、そういうレベル。
今の人たちのために作っているというよりかはその先、「僕がこの世からいなくなったとき、このうつわからどんな物語が生まれるのかな」というのがすごく楽しみで。

このやきものたちは、
僕がこの世からいなくなったときがスタートじゃないかなって思う。

全部割られるかもしれん。
割られても「あぁ、そういうもんだったんかなぁ」で終わるし、もしかしたら誰かが、大切に大切にずっと使い続けたいって言ってくれるかもしれない。
この中に想いさえ詰め込めれば、僕の仕事はもう終わりかなと思ってる。

−−陶芸しているとき、どのような想いなのでしょうか?
(勇木さん)
うーん、陶芸って、芸事の芸がつくんだけど。陶芸ってなんだろうなって考えるところからだなぁ。なんだろうね芸って。
やきものの陶に芸がついて、その後に家ってつく。陶芸家って不思議な職業だよね。

芸術はそんな簡単に生まれるものじゃないって思っているから。

なので僕はね、やきものの作家って感じかな、ただ作る人って感じでおりたくて。
生き方そのものが作陶に、作家としてつながるように。生活の中に溶け込ませるように、特別視しない。
作っているときも日常だから、喜怒哀楽があるように上手くいくとき、そうじゃないときがある。

でもなんかできたときに喜ぶ。「やった!できた!」って。
ご飯食べたときに「おいしかった」っていうのと同じくらい、無理せず付き合っていけたらいいなって思ってる。

−−なるほど。そのやきものたちが、何百年後に誰かの手に渡ったらと。
(勇木さん)
そうそう。こうしてやったんだ!ってカッコつけたものは残らないと思ってる。

昔のものを見ていても思う、意外と素朴なものが残ってたりするんよね。
表面的な装飾のものとかは綺麗だなぁって思うけど、美しさと綺麗ってまた別なんじゃないって考えさせられるっていうか。
綺麗なものって記憶に残りにくい。

−−綺麗だなぁで終わっちゃう、心に残るのって美しいものなのかもしれないですね。海士町の海も。
(勇木さん)
そう、そういうものって心に残ってる僕の原体験、原風景と一緒で。
なんか残ってるんだよなぁ、どのあたり?と聞かれたら、分からない、なんとなくなんだよなって。

でも元気が出る。言葉にならないやつがいいよね。


幼いころの海士町での思い出

勇木さんの心の中に残っている、海士町の原風景。いったいどのような景色だったのでしょうか。

−−小さいころ海士町に遊びにきていて、思い出に残っている景色はありますか?
(勇木さん)
やっぱり、フェリーが好きだったんだよね。

−−おぉ、フェリーなんですね。それは感覚として車が好きに近いのでしょうか?
(勇木さん)
いや、車はスピードが好きで。スピードとかスリルを求めていたみたい。
小さいころ、TVでF1グランプリを見て衝撃を受けてから、F1ドライバーになりたかったんよね。

幼いころ、海士町の海で遊ぶ勇木さん(勇木さん提供)

(勇木さん)フェリーはね、そこから見える景色が好きで。
昔、本土から隠岐に向かうフェリーにデッキがあって。
今は2階にあるんだけど、あれが何席か1階にも横に向いてあったんよ、海が見えるように。
そしたらね、そこをトビウオがうわぁーって飛んで行ったりすんよ!何が飛んだんだ!?って、あぁいうのを見ているのが楽しかった記憶がある。

今から隠岐に行く、非日常空間に行くっていう感じ。

お気に入りの海の写真(勇木さん提供)


−−フェリーに乗るときの楽しみな記憶が残っているんですね。
(勇木さん)
そうだね、広島の自宅から七類に向かうまで、朝早く車で出発して、真っ暗な中から太陽が上がって6時くらいに明るくなっていく。そこの車に乗ってる感じも好きだった。

逆に帰りは寂しいんよね。
帰りに必ず家族で寄っていた松江のラーメン屋があるんよ。そこでラーメンを食べて帰るんだけど、なんか寂しい味がするんだよね、おいしいんだけどね。
なのでそういう、原体験・原風景かな。


いつの間にか我慢をしていた学生時代。そのおかげで今がある

勇木さんの作っているうつわには、海士町の土が使われているそうです。
今までの人生とつながる、やきものへの向き合い方をお聞きしました。

−−やきものに使われている土は、どこから取っているんですか?
(勇木さん)このうつわたちはね、家の裏庭の土なんだけど扱いにくいんだよね。
でもその分、焼き上がったときにものすごく化ける。

−−化けるというのは色合いとかでしょうか?
(勇木さん)
オーラかな。これまたむずかしい、なんとなくの部分。
綺麗とかではなくて、なんかこれ大丈夫?って思わせるんだけど力があるんだよね、やっぱり。

−−焼きあがるまで分からないという感じなんでしょうか。
(勇木さん)
そう!まさにそう。安定させないように最後まで作るっていうそういうやり方を選んでいるんだけど。

−−同じものをたくさん作るのではないんですね。
(勇木さん)
フォルムだけは合わせることもあるけど、それを求められていないときは、最大限その個性を活かすためにどんな可能性があるか、というのをずっと追求してる。
完成したときは「全然理想と違う!」と思っても、一年後見てみると「何これ、すごい力がある」ってなることもある。
自分の感性がまだ可能性を秘めているんだよね。

このやきものはこうだ!って言わないようにやり続ける努力をしている。
自分からはこれを隠岐焼ですって言わない、決めたくない。まだ変わるかもしれないからね。
「これは、隠岐窯で作った勇木のうつわです」って。

−−これぞ!といううつわは、今のところはまだ、ということですね。
(勇木さん)
僕がこの世からいなくなったときに誰かが言うんじゃないかな。「これは隠岐焼だね」って。
それを言ってもらったときに、「あ、人と違うものを作っていたってことかな」って。

(勇木さん)その時々でやきものを作ってるから、前回と同じものをって言われたらできないんよね。そのときの体調も、成長具合も違う。

毎回50%でやってたら永遠に同じものができると思う。それを100%に持っていくと多分二度と同じものはできなくて。
よく言えば、毎回自分を出し切っているってこと。
それが社会とのマッチングが難しいところで、社会は安定を求める。でもこっちは不安定を楽しもうとしてるけん。

−−高校生のときから世界が大きく変わられたんですね。
(勇木さん)
我慢してたんだと思う、高校三年生まで。
でも、我慢するっていうのはすごく大事だった。
これがやりたいってすぐ飛びつかないのが信念で。まず一回、消化するまで我慢する。

−−その先にあったものが、やきものだった。
(勇木さん)
そう、爆発力が半端じゃなかった。そこから18年分が大爆発した(笑)
ここまで決まったら変わることはなくて。

やきものを死ぬまでやり続けたら、誰かが認めてくれるって思ってる。
そういう感じかな。


勇木史記さんが歩んでいく「陶道人生」

幼いころの海士町の思い出から、学生時代、やきものへの向き合い方までをお話しいただきました。
素朴な佇まいのうつわたち。手に取ってみると、優しくあたたかみのあるさわり心地。
一つひとつのうつわから、勇木さんのお人柄を感じました。

インタビューの最後にはアトリエを案内していただき、実際にうつわを作る過程を見せていただけることに。

(勇木さん)例えば、これはうつわとしては完成しているんだけど、そのときにうつわの声が聞こえてくるというか。
それに合わせて、こうやってアレンジしてみるとか。

(勇木さん)これだけで一気に華やかになる。
こういう遊び心というか。そういうことを感じるには自分の余白、気持ちの余裕が大切なんだよね。
遊び心を養うために日常で海を見たりする、そうするとそこにヒントが隠れてたりする。そういう世界だと思うわ。

なので、食べやすいうつわがいいとかではなくて、例えばうつわの上の部分を結んで、中に珍味とかを入れてお箸で探して掴むとか。探して掴むところが好奇心をかき立てるというか。
もちろん、毎回の食事でこれをする必要はなくて。

たまにこういう遊び心があれば日常は楽しくなるんじゃない?というのが、僕が今日の昼に考えたやきものをやる理由のひとつ。
これはその一例。
それでおいしさってなんだろう?とか考えていくと、自分自身が成長していくのかな。

ーなるほど。アトリエに飾ってある「陶道人生」あの文字はなんでしょうか?

(勇木さん)あれは、「ここでやるんだったら、これを見える場所に置いておきなさい」と、先生にいただいた。
ここで道っていう言葉をつけてくれたけんさ、すっごく嬉しくて。
これが陶芸人生だったらちょっとな、落ち込んだだろうな。
道って言ってくれて、「答えはないんだよ、それでいいんだよ」って。それが人が生きるってことだって言ってくれたような気がしてる。

あれはね、陶って字が変わってもいいわけなんよ。
鉄道人生だっていい。なんでもいい。たまたま僕はやきものの魅力に取り憑かれただけ。

がんじがらめになっていない先生の言葉、この字に救われたんよね。

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勇木史記さんの個展情報
会期
:2024年5月18日(土)~26日(日) 11時~19時
    ※5月23日(木)はお休み
在廊日:5月18日(土)〜22日(水)
会場:「うつわや涼一石」東京都港区芝大門2-2-8

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(R5年度 大人の島留学生:柿添)

島との距離は離れても、気持ちはいつも近くに