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海士人(あまじん)

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見どころ満載!島内で様々なことに挑戦されている海士町の「人」にフォーカスした記事をまとめました。
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見どころ満載!海士町でいろいろなことに挑戦している「海士人」紹介マガジンができました!

海士町noteが作成している、海士町みんなのnoteマガジンや海士町教育委員会のマガジンには、計1,000本を越える記事が掲載されています。 それらの中から、海士町の「人」にフォーカスした記事をまとめ、新たに「海士人」というマガジンを作成しました。 さらに!海士人マガジンに掲載している記事のマップ化もしています。気になる記事から、気になる場所から、海士のみなさんを知っていただけるとうれしいです✨ マガジンを作成するに当たって、海士町noteスタッフの私が、ぜひみなさんに

受け渡される島ファクトリーのバトン。水のように柔軟に、流れるように。

島の観光を支える、島ファクトリー。 2024年11月に代表の青山敦士さんから、あらたな世代へバトンを受け渡すことに。 島ファクトリーの歴史、それぞれの歩み今回、青山さんからお2人にバトンを受け渡すこのタイミング。 青山さんに、創業から今までの島ファクトリーの歴史を辿っていただきながら、途中から仲間に加わった藤尾さんや肥留川さん、お2人から見える島ファクトリーについてお話しいただきました。 (青山さん)創業からコロナ禍前までの時期。島ファクトリーは本当に手作り。名前の通り

こじょうゆ糀を仕込む。島の食文化を守りたいと立ち上がった人たち。

海士町で代々受け継がれてきた「こじょうゆ味噌」。その原料となる「こじょうゆ糀」をこの先の未来に残していくためにーー。 「こじょうゆ糀」とは、海士町の食文化として親しみのある「こじょうゆ味噌」の原料。「こじょうゆ糀」に「塩・水あめ・みりん・酒」などを入れてつくるのが海士町の伝統食「こじょうゆ味噌」です。 ▼こじょうゆ味噌 しかし、一昨年海士町で「こじょうゆ糀」をつくっていたJAさんが事業から撤退。昔ながらの食文化を継承すべく発足されたのが、こじょうゆ組合さんです。 「こ

歩き出した先生としての道

2学期が始まり、特に1学期とは違う顔つきのお2人の先生。 初任者教員として、今年度から福井小で勤務されている永島先生と植田先生にインタビューしました。 永島ゆず野先生先生になりたいと思ったのは、子どもが好きだったから 「先生になりたい!」と思ったのは、子どもが好きだけん子どもと関わる仕事に就きたいって、小学2年生のときに思ったから。そこからは、父の姿を見たり、兄や姉の姿を見て、楽しいんだろうなって。(永島先生のお父さん、お兄さん、お姉さんも教員をしておられるそうです!)

「島で仕事を作ってほしい。」全国から若者が集まる島で生まれた若者。

島生まれ島育ち。地元が無くなってほしくない。島で仕事を作りたい。 でも、自分の中での幹の部分は、まだ見えてないです。 ーー今年の5月から海士町役場 住民生活課で勤務している井筒 翔太(いつつ しょうた)さん。隠岐島前高校を卒業後、約8年間を島外で過ごした井筒さんが海士町に戻ってきた経緯や、井筒さんの島に対する思いを伺いました。 島で生まれ、島で育ちました。小中高と海士町で過ごした後、県内の大学へ。大学卒業後は東京のIT系の企業に就職したといいます。ーー 井筒さん: 幼少

「週に1回は夕食を作らなくていい日♪」そんな日があってもいいよね。島で暮らすママさん2人が届けるお惣菜屋さん。

「今日の献立どうしよう?」「ご飯作るの大変だなぁ〜」 島で暮らすママさんならではの視点で生まれた、お惣菜屋さん「うちのごはん」が7/29にオープンしました✨ 1〜2品でも気軽に買えるお惣菜。みんなが安心して食べられる家庭料理を届けたい。 そんな思いから立ち上がった海士町在住のママさん2人にお話を伺いました。 子どもが同い年。そんな接点からはじまったお話。篠原さん:2人が出会ったのは、子どもがたまたま同い年で海士町の子育て支援センターで知り合いました。 ママさん同士仲良

正解がないからおもしろい。音楽界から海の世界へ飛び込んだ理由【海士町 大敷網漁師 浜口夏生さん】

7月といえば七夕。 そんな季節の風習に親しむ「七夕野外演奏会」がゲストハウス「たちばな」にて行われました。 noteスタッフも季節の気分を味わいに、いってきました✨ 今回のゲストは、2022年1月に海士町に移住した、浜口夏生さん。 音楽大学を卒業され、現在の職業は崎地区にある大敷網(定置網)の漁師さんなんです。 ピアノの世界からIT企業を経て、漁師へ。そんな経歴をもつ浜口さんにこれまでのお話しを伺いました。 3歳からはじめたピアノ、続けることへの違和感。 浜口さん:

表現の軸は「ひと」にある。『アンアン』や『ポパイ』を手掛けたアートディレクターの半生。【海士町出身 新谷雅弘さん】

「ここで泳ぎを覚えてね。あそこに僕の実家があったんですよ。」 そう、気さくに答えてくださったのは海士町多井地区に住む新谷雅弘さん。 新谷さんは聞き馴染みもあるであろう、『ポパイ』や『アンアン』、『オリーブ』といった名雑誌のデザインをしてきたアートディレクターだ。 6/28からは、新谷さんのしごとや手がけた雑誌を特集した展覧会が島根県立美術館で開催されている。 海士町で育ち、アートディレクターとして活躍している新谷さんの過去から現在に迫ります。 取材の舞台は、多井地区。

島外へ流れるお金を減らしたい!救世主はまさかのクラフトビール!?

2023年度の海士町未来共創基金に採択された「島のビールで乾杯を!田んぼと海を活かしたクラフトビール醸造事業」。 事業を立ち上げ、新たな挑戦をはじめる浅井峰光さんにお話を伺いました。 出身は愛知県の浅井さん。なぜ海士町で事業を立ち上げたのでしょうか ――海士町に移住した経緯は何ですか? 浅井さん: きっかけ自体は非常に単純で、島内企業「株式会社風と土と」の社長の阿部さんが私の高校の1つ先輩で。 お誘いいただき、風と土とに入社をするタイミングで移住してきました。 2016年

山陰広告賞を4年連続受賞!海士町在住クリエイター対談【中村徹也さん×南貴博さん】

海士町在住の中村徹也さんと南貴博さんが4年連続で山陰広告賞を受賞されました。 🏆映像部門金賞 人口600人の島の挑戦 広告主=協同組合YADDO知夫里島 制作社(者)=中村組 🏆地方創生賞 AMAFES2023ポスター 広告主=アマフェス実行委員会 制作社=ミナミデザイン 中村さんと南さんは4年連続の受賞ということで今回は特別に受賞作品ができるまでの舞台裏をお聞きしました。 4回目にワケがある、映像部門での受賞。 ーーこのたびは、山陰広告賞受賞おめでとうございます

島の教育魅力化の先駆者の一人【豊田庄吾さん】。「地域」×「教育」を一生貫くと決めたときから

海士町に来て15年。 離島で教育魅力化を牽引した一人である、豊田庄吾さん。 この春から新たな目標に向かって走り出す豊田さんの軌跡をたどります。 海士町までの道のり海士町に公立塾(隠岐國学習センター)を設立し、島の教育を切り拓いてきた豊田さん。教育に関わるまでにはさまざまな道のりがありました。 ーー海士町に来る前の経緯をお聞きしても良いですか? 豊田さん: 福岡県大牟田市出身で、広島の大学を卒業後はリクルートグループの会社に就職し、東京で働いていました。人事の仕事をしたり

海士町史に刻まれる希代のリーダー

2024年1月3日、悲しい報せが島を走りました。 前町長である山内道雄さんがご逝去。85歳でした。 山内さんは現役時代、前代未聞の挑戦を重ねて海士町を変革へと導いた、まさに激動期のリーダーです。炎のように熱く気合いに満ち、かつ愛嬌があり思いやりあふれる“情の人”。 「やるなら本気で、思い切りやれ!」と、職員らのヤル気に火をつけただけでなく、島で何かにチャレンジしたいという多くの若い移住者を応援し、見守り、“Iターンの父”とも呼ばれる存在でした。 「山内さんにとって、『ない

海士町で歩んでいく、勇木史記さんの「陶道人生」

海士町で作陶活動をされている勇木史記さん。 やきものに出会ったきっかけ、海士町に来られた経緯、勇木さんの人生のものがたりをお聞きしました。 やきものに出会った学生時代広島県広島市に生まれた勇木さん。 高校時代からやきものに出会った大学時代のお話しをお聞きしました。 −−やきものに出会ったのはどのような経緯なのでしょうか? (勇木さん)大学の授業で出会ったんだけれど、最初は陶芸の授業があるとは知らなくて。 高校の時に油絵とかをやって楽しくてね、元々は美術の先生になろうと思っ

【海士町】海士町の公務員の人

私qbcこと栗林は、東京生まれ、東京育ち。地方というものに縁遠いのですが。さらに離島というものにもかなり距離を感じているのですが。 無名人インタビューをしていて、思ったよりも離島関係のインタビューをしているんだなあと。 でも自分自身は行ったことがなくて。 いや、20代の頃に、伊豆大島に行ってますね。 遠かった。島の人に夜、車に乗せてもらって、ドライブしたな。 懐かしい。 また、そろそろ離島に行くタイミングなのかもしれない。 ということで無名人インタビューゴッ!!!!! 【ま